今は夏休みで、今日は特に予定もなかったので、僕は二つ上の兄と近所の川へ釣りに来ていた。
昼食をすませ家を出たときは雲ひとつない青空だったのに、いざ川について釣りを始めたとたん、すぐに空は曇りだしじめじめと湿気の多い風が体にまとわり付き始めた。
もしかしたら夕立でも来るかもしれない。
そう話はしていたものの、せめて一匹くらい釣りたいという気持ちがあって、僕らはもう少しここで粘ることにした。
今釣りに来ているこの川は、家の近くといっても自転車で三十分ほどかかる小さな山の谷間にある。草木が生い茂っているのと、川のおかげか多少他の場所よりは涼しく思えた。
僕達が乗ってきた自転車は、山のふもとへ続く小道の入り口に停めてあり、今いる場所からほんのニ、三分の所でここからよく見える。
僕らはいつもの釣りスポットに荷物を降ろすと、くだらない会話をしながら釣りを始めたが、なかなか魚は釣れない。
不気味なモノ
あまりにも魚が釣れず、暇すぎて兄は釣り竿を置くと大きく背伸びをした。
僕も同じように釣竿を置くと、持ってきていたペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「ん…?何だ、あれ…?」
兄が、かなり下流の方を見ながらつぶやいた。兄が何を見つけたのか気になり、僕も同じ方向を見る。その先に、ふといつもと違う何かが見えた。
恐らく自分も兄と同じものを見ているだろうと思い、僕はつぶやいた。
「……あんなところに、かかしなんかあったっけ?」
ここは僕らのほかにも釣り好きな人達がよく来るので、河川敷はある程度手入れが行き届いている。
川がまっすぐなために視界は良かったので、そこそこ離れた所まで見ることができた。
昔っから民家から少し離れたこの川のそばに畑なんかなかったのだが、僕はかかしのような奇妙なものを見つけた。
僕に見えていたものは……白い、かかしのようなもの。
ここからは結構離れた所にそれはあったので、細かいところまでは見えないけれど、かかしのように十字にはりつけにされているか、人間が両手を広げているかのように見えた。
体と思える部分は真っ白で、伸ばした手?の部分も白い。
たぶん、白い服を着ているのだろう。
黒くて長いもの……女の人の黒くて長い髪の毛だろうと思われるものが、顔を覆ってだらんと垂れ下がっているようにみえた。
いつ、誰があんなものをあそこに置いたのか、ちょっと気になって僕はかかしのようなものをじっと見ていた。
その白いかかしのようなものを見て違和感を覚え、よく目を凝らして見ていると、その白いかかしのようなものはものすごい速さで動いているのだ。
正確な大きさはわからないけれど、予想だと普通の大人くらいはあると思う。
誰かが動かしているのかと思ったけれど、周囲に人がいる様子もない。
何かがおかしい。
白いかかしのようなものを見ていてそう思った。
ゆっくりとそれは近づいてくる
何がおかしいと思うのかわからず、僕はしばらく白いかかしのようなものを見ていた。
はっきりとはわからないけれど……どうも、白いかかしのようなものはぼやけて見えているみたいだ。
ぶれている、とでも言うのだろうか。
そして気のせいか、ほんの少しずつこちらに近づいてきているような気がした。
僕は不安になり、兄を見た。
兄はずっと白いかかしのようなものを凝視しているようだったが、何だか様子がおかしかった。
「兄ちゃん……?」
僕は何だか恐くなり兄に声をかけたが、 兄は僕の言葉には返事も返さず、白いかかしのようなものを凝視していた。
その顔は青ざめて恐怖からなのか体がこわばり、がくがくと小さく震えているようにも見えた。
「兄ちゃん……?」
もう一度、声をかけてみる。
返事はなかった。
じっとりと湿った風が体にまとわりつき、不快感が強くなっていく。
「兄ちゃん!兄ちゃんってば!!」
兄は僕が怒鳴っても、見向きもせず返事もせずに白いかかしのようなものを凝視していた。
何かが、おかしい。
僕は、不安でたまらなくなり、兄の腕をつかんだ。
「!!」
兄の体は氷のように冷たく、鳥肌がたち、小刻みに震えていた。
驚いた僕は、兄の顔を見た。
兄の顔は血の気が引いてさっきよりも青ざめていた。
額には脂汗がにじんでいる。
一体何が起こっているのかわからなかったが、あの白いかかしのようなもののせいだと思い、僕は……。
僕は、兄の手を取り、その場から逃げ出した。
逃走
僕達が乗ってきた自転車で逃げようと兄の手をひっぱって自転車まで駆け出した。
兄は自分では動こうともせず、僕が強く手を引っ張らないと歩き出さなかった。
すぐそばに……数メートル後ろにあるのに、 何故か自転車までなかなかたどり着けない。
何度か後ろを振り返る。
白いかかしのようなものとはまだかなり距離があった。
兄を見ると虚ろな目でぶつぶつと何かつぶやいていたが、何をつぶやいているのか聞き取ることができなかった。
僕が手を引いてやらないとその場から動こうともしない。
どうしよう……。
僕は……。
僕は恐くて、まともに考えることができなかった。
とにかくあの正体不明な白いかかしのようなものから逃げたくて。
でも兄が一緒だと逃げられないような気がした。
そして僕は……僕は兄の手を離すと、一人自転車へと走りだした。
兄はその場で立ち尽くしてその場から動こうとはせず、僕は自転車に飛び乗ると後ろを振り返えらずに前だけを見て逃げ出した。
ふもとに続く一本道を物凄いスピードで自転車で降りていく。
道は緩やかな下り坂になっていて、時々転びそうになりながらも何とかふもとの道に出た。
それでもまだあの白いかかしのようなものが追って来ているような気がして、後ろを振り返ることなく家へと向かった。
家に着くと自転車から飛び降り、玄関を開けそのまま二階の自分の部屋へと向かい、部屋に入るなりドアを乱暴に閉めた。
カーテンもしめて布団にもぐりこみ、僕は一人がくがくと震えていた。
それは家まで追ってきた
「……」
どれくらい時間がたったのだろう。
どうやら僕は眠ってしまったようだった。
恐る恐る布団から出る。
部屋の中は真っ暗で、家は静まり返っていた。
ふと兄が戻ってきているのかが気になり、隣の兄の部屋に行くことにした。
恐る恐る自分の部屋のドアを開ける。
特に何の変わりもない、いつもの自宅の廊下だった。
隣の兄の部屋のドアをノックするが、返事はなかった。
少し怖かったものの、僕は思い切ってドアを開けてみた。
真っ暗な室内には、誰もいない。
兄は、どうしたんだろう……。
もしかして、まだ戻っていないのだろうか……?
もしかしたら、もう戻ってリビングで母たちと話しをしているのかもしれない。
僕はゆっくりと、階段を下りて、一階のリビングへと向かった。
リビングは明かりがついていて、人影らしきものも見えるけど話し声は聞こえない。
でも僕は母さん達がいるんだ、と思うとやっと安心できた。
リビングのドアノブに手をかけ、ゆっくりと開ける。
「母さ……!!」
僕は、自分の眼を疑った。
そこにはあの白いかかしのようなものと、虚ろな目でぶつぶつ何かを言っている兄の姿があった。
そして床には母らしき人が倒れていた。
母らしい、というのはそれが着ていた服が、今朝母さんが着ていた服だったし、髪型も母さんそっくりだったから。
ただ…腕や足、身体はあり得ない方向に折れ曲がり、首もあらぬ方向を向いていた。
こちら側に頭が、床に顔が向いていたいたため、顔は分からない。
床には血だまりができていて、生臭い嫌な臭いがしていた。
目の前の光景に驚いて後ずさった僕は、何か、にぶつかった。
僕が後ろを振り向くより早く、後ろにいる「何か」は僕の首を物凄い力で締め付け始めた。
「ぐ……が……」
息が出来ない!!
締め付ける力は弱まるどころか、強くなっていく。
僕は意識がだんだんと遠のき始めた。
最後に、僕の眼に映ったのは、コトバとも叫びとも区別のつかない、奇妙な叫びを上げながら体をくねくねとくねらせつつ、僕に手を差し出している兄の姿だった。
新世界へようこそ!
「……」
目が覚めると、僕はリビングで倒れていた。
電気がついていたはずだけれど、今は消えていて窓から太陽の光が差し込んでいた。
そして目の前にいたあの白い何かと、兄の姿もない。
でも目の前には、母さんだったものが横たわっている。
それはピクリとも動かなかったが、顔は上を向いていて左右の目があらぬ方向を向き、目や口、耳から血を垂れ流し恐怖でひきつった表情をしていた。
あれから、どれくらいの時間がったのだろう?
起き上がろうとしたけれど、何だか体に力が入っていないような感じで、ゆらゆらと体が左右に揺れていた。
何とか上半身を起こし、それから両手で体を支えつつ立ち上がろうとしたけれど、自分の手の指や脚の関節が、あらぬ方向に折れていることに気が付いた。
でも、痛みはなかった。
壁を支えに、何とか立ち上がり窓際へと移動する。
足も力が入っている感覚がなく、壁がなければすぐに倒れてしまいそうなくらい、身体がぐらぐらと揺れていた。
窓越しに外をみてみると……。
窓越しに見える風景はいつもと変わりない。住宅が並び、舗装された道路、お向かいの大きな屋敷に手入れされた庭なんかが見えているけど、何故だか人がいる気配がしない。
明るいのに、何だか寂しくて暗い、そんな感じ。
とぼとぼと野良犬が歩いているけれど、人間の姿はなかった。
ふと、背後にあの白い何かの気配を感じゆっくりと振り返る。
そこには、身体がぐにゃぐにゃになった兄が、ゆらゆらと揺れながら立っていて、その後ろから白い人型の何かが激しく体をくねくねと揺らしながら部屋に入ってきて、震える声でこう言った。
「新世界へようこそ!」
END